「どうしてコペンは楽しいだろう?」
という疑問は、他の車に乗るたびに沸き上がる疑問だ。
BMW118iでスポーツモードにして法定速度以内でエンジンを野生動物のように吠えさせて…楽しい。
安定した動きに守られながら、悪く言うと「音だけが猛々しい」。
でも楽しいのだ。購入したとしても満足できる。助手席や後部座席に乗る家族は、その乗り心地に満足するだろう。
アクセラだってそうだ。目に見える進化を続けるこの車の「びったり」とした安定性は横幅の広い双胴船のようだ。
吠えさえる部分はディーゼルエンジンにゆずり、1.5ガソリンは常に静か。
でも、いいだろう。この静けさに満足しないなら、進化を遂げた1.5XDというディーゼルエンジンが滑らかな回転音を日々聞かせてくれる。そのうち、クラシック音楽のようにそれが心地よくなる。
どちらの車もしっかりできていて、いい車だ。文句のつけどころがない。
日常の暮らしでもオススメで、バランスが非常にいい。
だけども、この二つの車よりも、もっと「簡単に」作られているようなイメージがある、軽の車がある。
オープンカー、コペンだ。
屋根を開けてこの車に乗っていると、オートマであってもペダルを踏むのが楽しい。
何気ない風景も、とたんに非日常の空間に様変わりする。
子どものころ乗ったカートのように、「ただ乗ることが楽しくて仕方がない」という気持ちになる。
残念ながら、上記2車には、そんな歓びはない。
どうしてなのかと考えると、車の本質的な存在について触れてしまう。
友人の佐々木典士さんが言っていた「動くものは本能的本質的に楽しい」という人間の感性。
つまり、乗馬は楽しいから乗る。ということだ。
私が高校生になってバイクを乗り始めたとき、ただ前に進む乗り物に乗ることが目的だった。
目的地は決めず、ただ走る。
それで楽しかった。
乗馬も、今では目的地への移動では使わない。
ただ森の中を移動したり、トラックの中で走ることを楽しむ。
たしかに、公園にも遊園地にも、動くものはたくさんある。
バイクにも乗馬にもコペンにも共通しているのは、まわりの景色や道路、風といった情報を浴びるように感じながら走ることだ。
何かに守られている感じはしない。
コペンのボディに「頑丈な感じ」をイメージできないのは、実際に頑丈ではないからではない。
でも、乗ってみると他の頑丈な車に比べて、そんな感じは明らかにしないのだ。
バイクも乗馬も、ゴツゴツとした路面の揺れを感じるが、コペンも感じる。
すぐ下に路面があるような感じがするし、それが非常にスリリングだ。
「今自分は走っている」
そんな単純なことに意識を集中できるのがコペンなのだ。
今、車は安全性能を高め、頑丈になってきた。ドアを閉めた瞬間の無音に高級感を感じ、足回りの良さを人々は語る。
ドアはどんどん高くなって、肩肘をつけない。どのみち、エアバッグがあるので肩肘をつけてはいけない。
外の世界と遮断することで、車は性能を上げ、今あるような新車がどんどん生まれている。
それが車の未来であり、自動運転も車の未来なのは当然だ。
しかし、その未来は、「楽しい」というヴィークルの本能をごっそりと奪っていく。
初代ロードスターとコペンは似ているはずだ。
NDロードスターは楽しいが、立派すぎるほど立派だ。コペンと比べると隙がなさすぎる。
S660は評価が難しい。コペンと同じような楽しみがあるはずなのだが、個人的にはコペンにある何かが足りない。
ご存じの通り、スペックではコペンが一番下なのに。
バイクは永遠に安全なものに纏われることなく、感性を剥き出しにしたままだ。
馬だって、安全装置に囲まれることはない。
車だけは、「剥き出し」を嫌っている。
クラシックカーが楽しいと思えるのは、その剥き出し感にあるのかもしれない。
楽しさを追求すると、これが理想的だ。
二輪のデザイナーが考えた、囲まない車。
バイクのように囲んでいないけど、4輪で二人が乗れる。
しかも、タイヤの感覚をもろに感じられる。
「こんな車を買っても、荷物は載せられないし、危ない」
という意見が出るのが、バイクとの違いだ。
車とはやはり、そもそも利便性の追求にある。
ただ、こういったコンセプトの楽しさを極力スポイルせず、やみくもに安全性や遮断性を高めない日常使いの車は追究され続けていい。
すっぱりとこの楽しさを諦めず、苦悶してほしい。
たとえば、昔の馬車のようなスタイル。運転手は剥き出し感があり、乗っている人は快適な部屋の中にいるような車。
一瞬の想像で、「無理か…」と思ってしまう自分がいる…。
私はたぶん、もうバイクに乗らない。
馬にもたぶん乗らない。
高級で立派な車や、車高の高いSUVにもたぶん乗らない。
家族で使えて、コペンのような楽しみを感じられる車を、ひたすら望んでいる。
高速では不便だとしても。