バイクへの憧れはやまない。高校生でバイクを乗るようになってから、たぶん4、5年で車へとヴィークルは移った。ノーヘルでネイキッドのバイクに乗り、アメリカ大陸を横断する姿や、その未知のフィーリングを「まだ感じていない」と思いながらも、いつしか時は過ぎて43歳になってしまった。
まっすぐな道をただモーターバイクで往くとき、何を感じるのか。
自分だって、北海道のまっすぐな道を、目的地もなくただ何度も走り抜けていたから、同じようなフィーリングを感じているはずなのに、わからなかった。
それは、オフロード用の大きなヘルメットのせいではないかと、一人考えていた。
今、私は自分の車で、法令を守りつつ、市街地でしっかり加速もするし、ゆっくり走りもする。
ここ数日に限れば、ゆっくり走っている。
それはなぜかというと、バイクに関係している。
バイクに乗りたいと思いつつ、もし私がそこに手を出せば、いろいろとクレイジーになってしまうことはわかっている。
だから我慢している。それでもいつか手を出してしまうかもしれないと思いつつ、車で同じような感覚を味わえたら…と思ったりもする。
だから、ある日曜日の夜に一人で車に乗る機会があり、私はバイクに乗っているつもりで運転した。
それが、馬鹿みたいに楽しかった。
私はバイクに乗っている。と思って運転すると、こんな脳状態になる。
「1300ccのビッグバイクに乗っている」
「重たい車体をゆっくり動かそう」
車だとそれほど大きいと思えない排気量は、ビッグバイクのように感じる。バイクはバランスの問題があるから、急発進、急停車は危険なので、車ほど乱暴な運転はできない。車体が動くのを感じながら、ゆるゆると発進する。
そうしていると、小さな排気音に耳をすまし、まわりをしっかり確認して動いていく。
バイクが横へ右へと移動しバランスを変えていくように、ひらりひらりと車体を動かすようになる。それは、右に動くときはアクセルをいったん緩めて、また踏むという動作になる。
前と後ろに車がなければ、ゆっくりと走りたくなる。まわりをしっかりと確認し、安全運転になる。
それと同時に、美しい紅葉の街路樹が目に入ってくる。
ゆったりと運転していると、そうやってまわりの風景が目に入ってくる。脇見運転ではない。いつもよりずっと確認をしていて、それと同時に入ってくるのだ。もしスピードを出していれば、そんな余裕はない。
その、まわりの景色が目に飛び込んでくる感じが、バイクに似ていると思った。
バイクは車より一層、左右前後の確認が必要で、同時に遮るものがないから、まわりの風景が目に入ってくる。車でいうとオープンカーに近い。
人の脳は不思議で、高速道路でスピードを出して走っても、真ん中の視野以外をカットして、ゆっくり走っているような錯覚を作り出す。普段の運転でも同じで、前ばかり見て走っていると、自分のスピードに対して鈍感になる。左右の窓をなくして、真ん中だけが見えるような感覚になるのだ。
ゆっくり走り、まわりをしっかりチェックして走っていると、ゆっくりでも「走る歓び」がある。ゴーカートで走るのが楽しいように、スピードに関係なく、乗り物を動かしている歓びを味わえるのだ。
「ゆっくり走ることは許されない」と多くの人が思い、ある程度スピードを出して道路の流れをスムーズにするという感覚で人はヴィークルを駆っている。
だが、森の中を乗馬するように、車という愛馬をゆっくりと走らせることの優雅さを人は感じるべきだ。
スピード優位の車社会は、車離れを加速させるだけ。麻痺した脳に歓びはない。
モーターバイクの開放感溢れる未知のフィーリングは、風景を味わおうとする、その意思そのものが生むものなのかもしれない。
安全性を高めるという目的から、牢屋のごとくシャシーを囲み、開放感をなくしてきている車たち。
サイドの視認性を拡げることが、スピードを出さなくても歓びを感じるヒントになるなら、デザイナーは必死に抵抗してほしい。
ゆっくりと、その大きな愛馬、モーターカーを動かすのは、それ自体が歓びだ。
目的地はない。ただ走るだけ。
沼畑