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マツダとイタリアン・デザインを結びつけた宮川秀之 そしてMX-81 Ariaの発見。

マツダ・イタリアが制作・公開した映像。

マツダのデザインがいかにイタリアの影響を受けているかを探ったものだが、貴重な映像がふんだんに盛り込まれている。

まず、登場するのは宮川秀之氏とジウジアーロ。知る人ぞ知る宮川氏だが、彼がイタリア語で当時を説明する姿が捉えられている。

日本のカーデザインとイタリアを結びつけ、停滞していた日本のカーデザインの方向転換を図ったのが宮川氏だった。

特に、4輪事業に参入したばかりのマツダにとっては、宮川氏の功績は大きかった。

すべての始まりは、宮川氏がイタリアでマリーザという女性と出会ったことだった。それが1960年。

宮川氏は当時、オートバイ世界一周中だった。しかし、イタリアでオリンピック前の盛況に遭遇し、毎日新聞の臨時特派員になる。オリンピックが終わると、トリノ・モーターショウの取材依頼を日本のモーターマガジンから受けた。そこで出会ったのが通訳だったマリーザさんだった。

トリノで最新のイタリアン・デザインを目の当たりにし、日本車のデザインに危機感を持った彼は、日伊を結びつけることを決意していた。

その後二人は結婚し、宮川氏はイタリアに永住を決意。日伊の橋渡し役となるべく奔走する。

そして、ついに1963年、最初の共同開発がベルトーネとマツダの間で行われた。

なぜマツダかというと、マリーザさんが宮川さんと出会ってまもなく、日本に語学留学をしたからだ。

留学先が、広島だった。

宮川氏はマリーザさんを追って広島に行き、求婚。その際、マツダの松田恒次会長と会い、日本の自動車産業やデザインについて話し合ったのだった。

宮川氏によると、日本のカー・デザインは当時、力強さを失っていたという。

彼が最初に会ったデザイナーは、ベルトーネ在籍中のジウジアーロだった。

マツダはベルトーネのデザインでファミリアを生み(映像ではルーチェとなっている)、ベルトーネ在籍中のジウジアーロが手がけたのがルーチェ(1966年)となった。

ジウジアーロはその後も多くの日本車を手がけることになる。

映像には宮川氏とジウジアーロが一緒に映っているが、1968年のジウジアーロの独立を後押ししたのも宮川氏だったという(イタル・デザインの前身となるイタル・スタイリングは、宮川氏とジウジアーロによって設立された)。

MXのルーツが倉庫で発見された。

マツダは、1981年に再びベルトーネと組み、MX-81Ariaというコンセプトカーを誕生させた(MXはMazda eXperimentalの略)。デザイナーはマーク・デシャン。

「10年後のファミリア」というテーマで空気抵抗を減らした外観を作り、ステアリングホイールはなく、モニタ自体が回転する。燃費などの情報は3次元表示という設定だった。1.5リッターガソリンエンジン、126bhp。

2019年、マツダの社屋(須崎倉庫)で、MX-81が見つかった。通常コンセプトカーは廃棄されるが、MX-81はコンディションは良く、レストアが決定。エンジンやステアリングが広島工場でレストアされ、イタリアに送られることになる。

イタリアではパネルや塗装、レザーシートの修復が行われ、ポップアップ式ヘッドライトも復活させた。

100周年の事業として2020に作業は完了した。

81年に撮影されたMX-81

ご覧のように、MXという名前はロードスター(MX-5)とMX-30に受け継がれている。

MX-81を見てからMX-30を見ると、確かに似てなくもない…。

想像以上にイタリアン・デザインの影響を受けていたマツダ・デザイン。

マリーザさんが留学先に広島を選んだ理由はわからないが、マツダファンは故マリーザさん(2003年に逝去)に感謝しなくてはならないかもしれない。

最後に、生まれ変わったMX-81。

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