フォルクスワーゲンのディーゼル不正事件のころに書かれた記事(maash.jp)をリライトして再掲載。
人とは争うものだ。
と、納得せざるを得ないのが、フォルクスワーゲンとポルシェの戦いだ。
まず、謎について。
謎1 なぜピエヒ家とポルシェ家は争うことになったのか
親戚なのに。
謎2 ポルシェはなぜVW買収を画策し、失敗したのか
買収できると思うまで成長したのには、日本のあるメーカーの協力があった。
そして、敵対的買収を決心するまで、いくつかの要因があった。
謎3 ウィンターコーンを支援していたのは誰か
今回の不正では、ピエヒというVW監査役会前会長と、ウィンターコーンの争いの構図が取り上げられた。
しかし、二人は元々コンビ(ウィンターコーンが部下)だった。
ウィンターコーンはピエヒを会長職から退かせるのだが、それは彼一人の力でできるものではない。
力を貸していた誰かがいる。
謎4 結局、全体を支配しているのは誰なのか
それが、よくわからないところ。
ポルシェとVWを作った男
さて、謎を解くためにまず説明は戦前のドイツに遡る。
1931年にフェルディナンド・ポルシェという天才が、ポルシェ社を設立。
これは、車生産会社のためにクルマを開発する会社で、1934年にはヒトラーから「国民車」生産を任される。
1937年にはVWの基となるドイツ国民準備会社をフェルディナンドが設立。
翌年、社名はフォルクスワーゲンになる。
同年、ヒトラーのデザインを基にして後のビートルに繋がるKdFワーゲン発売。
戦後は価値がないとみなされ、ニーダーザクセン州管理の公営となった。民営化は1960年。
ところで、ポルシェ博士には優秀な技術者の助手がいた。息子のフェリーだ。
フェリーは戦後、ポルシェNO.1と呼ばれる356を開発し(48年)、ヒットさせていた。
同時にVW社長のノルトホフ(元オペル)と業務提携。ポルシェはVWのパーツを自由に使え、ヨーロッパ中のサービス網も使えることになったことで会社として成功を収める。
フェリーの姉はルイーゼ。二人は仲が良く、フェリーがポルシェ社の経営、ルイーゼがポルシェ持ち株有限会社の経営を担当するのだが、ここらへんから話が難しくなってくる。
姉ルイーゼの担当する有限会社は、ポルシェ社の持ち株会社のように見えるが、そうではない。
この会社は、おそらく前述したノルトホフとの業務提携で生まれたものだ。VWの全車種をオーストリアや中国など21カ国への輸出・販売などを独占するロイヤリティ契約で、後にポルシェ持ち株有限会社はヨーロッパ最大の自動車販売代理店になる。
さて、ピエヒという性はこのとき登場する。姉ルイーゼが、当時弁護士のピエヒ(現在登場するピエヒの親)と結婚したのだ。
そして、4人の子供を授かり、同じように、兄フェリーも4人の子供を授かった。
いとこが8人になったわけだが、この第三世代と呼ばれるポルシェ博士の孫たちは、後にポルシェの車設計に関わってくる。
フェリーとルイーゼが担当をはっきり分けたのは、遺言によるものではない。
ポルシェ博士は単純に、二つの会社をそれぞれ50対50で二人にわけた。
つまり、議決権的なものは両家で対等に決めるということになったのだ。
この50対50というのが、話をややこしくさせている。
論説では「上記二社の50:50の財産分与」と書かれているが、そうなるとポルシェ社とポルシェ持ち株有限会社の株ということになる。ルイーゼの経営するポルシェ持ち株有限会社も、50対50で両家が株主なのだ。
それがどう変わったのか、唐突で分かりづらいが、現在の構造を見てみよう。
「ポルシェ家系とピエヒ家系の株主総会」が、「ポルシェ自動車持ち株SE」の100%議決権(だいたい50対50)を持つ。
ポルシェ自動車持ち株SEが、VW株式会社の50.73パーセントの議決権(VWはポルシェ家とピエピ家のものという意味)を持つ。
VW株式会社が、ポルシェ社(兄フェリー由来ポルシェ家系)とポルシェ持ち株有限会社(姉ルイーゼ由来ピエピ家系)の100パーセント議決権(ポルシェはVWのもの)を持つ。
ポルシェ自動車持ち株SEというのは新しく出てきたので、とりあえず置いておいて、正式な名前のない株主総会が、いつかどこかで開かれていることになっている。
「ポルシェ家とピエヒ家の株主総会」だ。
これが謎4の答えに繋がる。
911の製作からすべては始まった
兄フェリー指揮のもと、「誰がみてもポルシェとわかる車」を作るために、第三世代が開発陣に集った。
911の開発である。
ポルシェ家からは長兄アレクサンダー(デザイン)、ペーター(生産)、ピエヒ家からフェルディナンド(後のVW監査役会前会長。ピエヒといえばこの人)とエルンスト。
しかし、ピエヒ(フェルディナンド)とポルシェ家ペーターの仲が悪かった。
ピエヒはエンジンの開発と試作を終了した段階で、ペーターはカムシャフトに対して文句をつけたという。
ペーターは押しが強く、おそらくポルシェ家の後継者を狙っていた。
順当であればポルシェ家では長兄アレクサンダーが後継者になるはずだったから、アレクサンダーとペーターも争うようになった。
ペーターはポルシェ家ではないピエヒが活躍するのも許せなかったのかもしれない。
フェリーとルイーゼはあらゆる手段を使って、彼らの仲が修復するよう試みたが、無駄だった。
最後には、第三世代追放という、悲しい結果となる。
ペーターは41歳で年金生活を選び、アレクサンダーは自分のデザイン事務所を設立。
ピエヒはダイムラーに拾われる。
ポルシェ社は結局、四男であるヴォルフガング(ポルシェ監査役会会長)が継ぐのだが、彼は柔和・協調的という性格にもかかわらず、ピエヒと争った。
結局ピエヒは、彼からすると雑草だったのだ。
まず、ピエヒは小学校2年で落第する。読み書きの言語障害があったらしい。
ルイーゼはピエヒを山中の寄宿学校に送り、結果ピエヒは人を信じなくなった。
いじめがあり、「自分しか信じない」と心に誓ったという。
決して大人しく寄宿生活をすることはなく、夜遊びもしながら自由な性格を手に入れた。
22歳で女友達との間に子供ができ結婚。5人の子供を設けた。その後は4人の妻との出会いがあり、計12人。
つまりは破天荒なのだ。
そんなピエヒをポルシェ家は差別的な心で見ていたと思うが、一番の問題は、子供のうち二人が、ポルシェ家のいとこの妻との間にできた子供だったことだ。
もしそれが、ペーターやヴォルフガングの妻だったらと思うとぞっとする。
彼は子供を抱えながらチューリッヒ工科大学の機械工学を専攻し、学位試験で見事なエンジンを設計した。
ポルシェに入社してからは彼の設計したエンジンを積んだ車がルマン耐久レースで優勝。
両家の中で唯一の技術者を自負し、同僚たちもポルシェ博士の血を継ぐのはピエヒと囁くようになった。
いとこたちとの争いののち、ダイムラー社でディーゼルエンジンを開発。
そしてアウディにてクワトロ(4WD オンロードでの走破性も兼ね備えたフルタイム4WD)の開発に成功した。
圧倒的な名声を得て、彼は自分の実力でVW社長に昇りつめた。
この時点で、ポルシェはVWと業務提携先であり、ルイーゼ由来のピエヒ家はVW最大の販売会社だ。
ポルシェ倒産危機はトヨタが救った
ポルシェはアメリカでよく売れた。
80年代中期は5万3000台。うち、アメリカが2万8000台だった。
それが、88年ごろになると世界で2万9000台になり、アメリカで7850万台まで激減した。
92年の赤字は1億2200万ユーロ。
売れなくなったのに加え、車種や生産方式にも問題はあった。
車両間の共通部品は少なく、手作業が多かったのだ。
この危機を救ったのが、93年に社長に就任したヴィーデキングだ。
ポルシェには頑固なマイスターが多く、職人たちの作り上げた生産方法を変えるのは困難だった。
しかし、ヴィーデキングは彼らを引き連れて、トヨタを訪問した。
「私たちは零細スポーツカーメーカーです」と、あくまで低い姿勢で見せてもらったらしい。
トヨタは15人の管理者をポルシェ工場におくり、改善、無駄という言葉が実行されたという。
ヴィーデキングは現場に密着し、頑固な職人を罵ったりしたらしく、10年かけて日本式を導入したことで、業績は見事に回復した。
カイエン、ボクスター、ケイマンが売れたことで、手元資金は30億ユーロにも達し、ヘッジファンドとも呼ばれた。
他社を買収できるようになったのだ。
2000年以降にポルシェ社がVWを買収しようとした理由は、「恐怖」だった。
彼らが一番恐れたのは、VWが他社に買収されることだったのだ。
ポルシェはVWに比べれば小さな規模で、世界一の車を開発し続けるには、いつかまた資金繰りが苦しくなると予想されていた。
VWの研究開発協力、部品の提供などがあってこそのポルシェ(業務提携は続いているのだ)だった。
ヴィーデキングはそういった経済的なことから敵対的買収を決意した。
ポルシェ社を仕切っているのはポルシェ家だ。
いつ開かれるのか不明なルイーゼ由来のピエヒ家とフェリー由来のポルシェ家の株主総会があり、本当なら50対50に議決権がわかれているが、おそらくピエヒ家はポルシェ社の経営にほとんど口出しをしない。
また、VW社長となったピエヒは社長という立場からもポルシェに愛情がなく、「年間台数の少ないポルシェは存続できない」とまで考えていた。
だけども、統合には賛成だったという。
ただ、ポルシェ社が上に立つのは、納得ができなかった。VWへの愛情は強く、ピエヒ家はVW販売会社でもある。
2005年、ヴォルフガング(ポルシェ家四男)とピエヒを前にヴィーデキングはVWの株式20パーセントをポルシェが取得する案を披露した。
誰もがピエヒ(VW監査役会会長)は反対するだろうと思っていたが、トヨタに追いつくという目標のため、賛成した。
しかし、ポルシェ社はアメリカの投資銀行数社と手を組み、VWにもドイツ当局にも知られぬままに20パーセントではなく、75パーセント取得を目指した。
買収が成功すれば、VWの手元資金130億ユーロをポルシェ社のものとして、返済に充てる。
2008年10月8日、ポルシェは75パーセント計画をついに発表した。
ポルシェはすでに42.6パーセントを所有し、オプション(権利)31.5パーセントで、合計74.1パーセントになっていた。
そのときのピエヒの心情はわからない。ポルシェ社がVWを買収しても、ピエヒ家はポルシェ社のオーナーであることは変わりない。だが、VW代表としては、統合ではないため、裏切られたということになる。
そして、運命のようにリーマンはやってきた。翌月のことだった。
買収計画の主導的役割を担っていたメリルリンチが経営破綻に直面。
車も売れなくなって、09年は赤字となった。
負債総額はもはやどうにもできない、100億ユーロ。
2009年、ヴィーデキング(ポルシェ社社長)とヴォルグガング(ポルシェ家四男オーナー家)は、ピエヒ(VW監査役会会長)とVWヴィンターコーン社長の前で、頭を下げた。
VWの子会社となることが決定し、ヴォルフガングは従業員を前に涙し、「ポルシェは永遠にポルシェであり、株式会社だ」と言ったという。
退任が決定したヴィーデキングが壇上に上がると、1分間、歓声と拍手が続いた。
この時点で、ポルシェ家とピエヒ家の持つポルシェ社の直接の株主は、両家でなくなった。
同時に、ポルシェ持ち株有限会社(姉ルイーゼ由来ピエピ家系)もVW傘下(外部から見ればポルシェ社の一部と見えていたのかもしれない)となり、直接の株主は両家でなくなった。
ドラマは終わった。と思った。
さて、買収劇が終わったが、株主総会は続く。
普通なら、買収失敗で誰かが追放され、終わりのはずだが、ピエヒの敵だったはずのポルシェ家四男ヴォルフガングはまだVW株主総会の席にいる。
彼は株主であり、VWの監査役(20パーセント取得時点より)だからだ。
両家はポルシェ2社の株主ではなくなったが、VWの株を買ったため(数字については後述)に、VWの最大株主となったのだ。
2010年4月、ハンブルグでの株主総会で二人は1メートルほどの距離だったので、ヴォルフガングが握手を求めたが、ピエヒは無視した。
そのとき、ヴォルフガングの表情は凍り付いたという。
以来、二人が同席するときはなるべく離れて座り、間にヴィンターコーンが座るようになったらしい。
ここまでで、まず
謎1 なぜピエヒ家とポルシェ家は争うことになったのか
は解くことができた。いとこ時代の争いをきっかけに、最後は買収劇で争った。
謎2 ポルシェはなぜVW買収を画策し、失敗したのか
もわかった。小さなポルシェ社が大きなVW社を狙った。
だが、現時点で
謎3 ヴィンターコーンを支援していたのは誰か
謎4 結局、全体を支配しているのは誰なのか
は、想像がつくだろうか。
話を進めよう。
ピエヒはVWの代表として、ポルシェ家に勝った。
勝ったというか、ポルシェ家の自滅だった。しかし、ピエヒ家としてはポルシェ家と同じ立場だ。オーナー一族としての敗北である。一方で、ポルシェ社の親会社となったVWの株主となった。その点では、オーナー一族として悪くはない。理想はポルシェ社のオーナー一族のまま、VWを傘下に置くことだったが。
両家の株主総会は続く。
仲の悪い両家が半分だと、牽制しあってあまり意味がなく、重要なことは話されないし、ピエヒ家はポルシェ社にあまり興味がない。
一方、ピエヒはVW社の監査役会では独断ですべてを決める。ポルシェ家のヴォルフガングは中に入れない。
そんなピエヒを見て、ディーゼル事件の予想をあるドイツ経済誌がしていた。
新聞は「『18年までに世界一を目指す』という目的しか見えない、手段を選ばない」とVWを酷評し、ヴィンターコーンが禁煙エリアで葉巻を吸い、罰金を払うという行為を例にして、「他の法は眼中にない」と表現した。
「危機に陥るのは時間の問題」と結んだらしいが、まさか本当に現実になるとは、記者も思っていなかったのではないか。
2015年4月、ピエヒがヴィンターコーンの社長任期延長に反対すると、ピエヒはなぜかあっさり敗北して監査役会会長を辞任した。
そして9月にディーゼル事件発覚。
ヴィンターコーンは引責辞任し、ピエヒがポルシェに送り込んだマティアス・ミュラー社長がVW社長となった。
ピエヒは監査役会長を辞め、ヴィンターコーンも社長辞任に続いて監査役も辞めた。
まるで計画されていたようなタイミングで、ピエヒは会長職を退いたのだ。
VWが不正を認めたのは、2014年9月だ。
表沙汰になったのがその1年後で、すぐにVWは8700億円の引当金を用意した。
「いろいろ準備していたのではないか」と噂された。
というのも、監査役会の20名は、ピエヒの謝罪さえあれば会長職を辞任する必要はないと思っていたからだ。
しかし彼は、一方的に妻ウルズラ(監査役)との辞意を監査役会に伝えた。
どう考えても、ディーゼル不正問題のトップにはピエヒがいる。
ヴィンターコーンではない。
この不正に対してどう対応するか。
そこで二人の意見は分かれたのではないか。
そうでないとすると、単純にピエヒは成績不振の責任をヴィンターコーンのせいにして、ヴィンターコーンはポルシェ家のヴォルフガングに泣きついたのかもしれない。これが各メディアの一般的な見方だ。
謎3。
監査役会で、ピエヒが本当に負けたというならば、やはりヴィンターコーンの背後にはポルシェ家がいたのか。
実は4月、ピエヒが「ヴィンターコーンとは距離を置いている」という発言に対し、ヴォルフガングは「ピエヒの発言は個人的なもの」と発言していた。彼がヴィンターコーン支持にまわったのを機に、ニーダーザクセン州、労働者代表も同意したのだ。
だけども、前述したように、監査役会が本当にピエヒに敵対していたわけではない。
あれだけ権力に固執したピエヒが、なぜあっさりと人事権を持つ(実際は独裁)監査役会をやめるのか。
そこには、過去に徹底的に尊厳を潰したヴォルフガングがまだ残っている。
前述したように、両家の株式総会は聖域で、両家が仲悪いだけに、余計な議論はしなかったと思う。
ここで、冒頭で登場した「ポルシェ自動車持ち株SE(ポルシェSE)」について説明したい。
ポルシェSEは、ポルシェ家とピエヒ家が50対50で株を持つ会社だが、ポルシェ社のオーナーではない。
買収劇に負けて、VWの議決権を持つ会社となってしまった。つまり、ポルシェ家系ヴォルフガングとピエヒに均等に力があるのだが、VW会長でもあるピエヒがVWを独裁していた。
今、ポルシェSEのピエヒ家としては、2名分の枠をVW監査会に送り、監査役の力は維持している。
結局、全体を支配しているのは誰なのか
メディアではこのVWの支配権を持つSEについて、両家50対50と書いているところが多いが、実際は前にピエヒ家の一人が投資に失敗し、アラブ系に売ろうとしたのをポルシェ家にとがめられ、ポルシェ家が買い戻したことでピエヒ47パーセント、ポルシェ53パーセントになった。
なので、数字上はポルシェが強い。
ヴォルグガングが何かを決め、VW株50.7パーセントの大株主ポルシェSEの意見とすることもできる。
だが、実際はVWを動かしているピエヒが自由に動くことができた。
何度も言うが、おそらくこの両家が関わるものに、意思決定権はない。
仲が悪いせいだ。
ここで重要なことを話し合って決めようということを避けている。
メディアはVWの影の支配者はこのポルシェSEがあるがために、ピエヒ家とポルシェ家だとしきりに表現する。
だけども、フェルディナンド・ピエヒが力を持っている構造が説明できず、50対50と事実を曲げて書いているところが多い。
実際はポルシェ家のほうが53パーセントなわけだが、ポルシェ家に強力な力はない。
ポルシェ自動車持ち株SEとはそもそも、自動車を作り、販売するポルシェ社の持ち株会社だ。
つまり、創業者のフェルディナンドがルイーゼとフェリーに対して平等に分けたポルシェ社の持ち株会社だ。
ポルシェSEの監査役会があれば両家が揃い、ポルシェ持ち株有限会社(ルイーゼが経営)も監査役会で両家が集う。
それに両家の株主で開催される謎の株主総会があるので、3回は両家が集う場所があるということになる。
いや、実に複雑だ。
論説によると、ヴァーデキングはリーマンショックでポルシェによるVW買収が無理だとわかったあとに、さらにVW株を買い増しし、42.6パーセントから50.8パーセントに増加させたとある。論説では「意味の無い買い増し」と書いてある。(議決権のある株の半数を超えたのだから、単独議決権となる)
このあとにVW社がポルシェSE(この時点でVWの大株主でもある)の持つポルシェ社株を段階的に買い取り子会社化した。
そのままポルシェSEは、ニーダーザクセン州からVWの筆頭株主の座を奪い、現在に至るのだ。
いつピエヒ家とポルシェ家がVWの筆頭株主となったのか、最初はどこを調べても最初は理解ができなかった。
1960年までVWは国営だったのに、そのあと民営化された。あの買収劇の20パーセント取得まで、ピエヒ家とポルシェ家はVWの筆頭株主でもなく、支配権もなかった。
簡単に解釈するためには、ピエヒがVWにいることを排除しなくてはならない。
実際は、VW会長対ポルシェ家主導のピエヒ家・ポルシェ家のポルシェSE(当時ポルシェ社の持ち株会社)だった。
ポルシェ家主導による「ポルシェ社傘下のVW」という、ポルシェ大グループ構想は失敗したが、ポルシェ家は結局、VWを法律上支配することになった。
買収劇によってピエヒとヴォルフガングの仲は冷え切ったというから、それが両家がVW支配権を得るための共同作業だったとは思えない。
ピエヒは同族が関わっているにも関わらず、ポルシェSEが今のように50パーセント超の株を得ること自体は、おそらく反対だった。
ヴォルフガングは、両家の議決権がポルシェ家にあるにもかかわらず、ピエヒが支配しているような状況を変えたかった。
買収劇は、会社としてのポルシェAGの失敗であり、VW監査役会長としてのピエヒの勝利であり、株主一族としての両家の勝利だった。
結論として、VWの支配者はピエヒ(ポルシェSE監査役)とヴォルフガング(ポルシェSE監査役会長)を筆頭とする両家という表向きで、法律的にはヴォルフガングがトップ。あとは姪二人がどれだけ経営に興味があるかどうかということになる。
VW社長、監査役会長として権力とお金をすでに持っていたピエヒには、ポルシェ社がVWを支配するまでの欲はなかったはずだ。一族としてのピエヒ家にはあったかもしれない。
ポルシェ家にとっては、ポルシェ社の繁栄こそが成功だった。
ポルシェ家の権力介入のないVW社長・会長時代が、ピエヒにとって自由で楽しかったのに、両家が絡み、なおかつポルシェ家のほうが法律上優位なポルシェSEが戦いを挑んできた。
結局、VW監査役会(株主総会で選出される)というピエヒにとっての最高権力組織の上に、大株主ポルシェSEが登場してしまった。
それでも実際にポルシェSEは権力を発動しないので、ヴォルフガングがVWのどこかの椅子に座っていても我慢していたが、ディーゼル不正という終わりの日が近づいていた。
ピエヒ「ヴィンターコーン(CEO)、不正を認めては駄目だ。別の方法でなんとか誤魔化し続けるんだ」
ヴィンターコーン「無理です。素直に認め、未来を見なくては駄目です。私たちはやりすぎました。ヴォルフガングもそう言っています」
ピエヒ「あいつは関係ない。あいつは何も知らなかったんだろ。もしお前が考えを改めないなら、任期の延期はなしだ」
ヴィンターコーン「……」
VW監査役会長の座を降り、監査役を辞した彼は、今度は大株主会社の一人として、ポルシェSE監査役として影響力を残した。
ヴォルフガングと彼の関係は今、はたしてどうなっているのか。
それがただただ、気になるのだ。
2012年の報道によると、
ポルシェSEはVWに50.7%を出資する筆頭株主でもある。2009年夏、巨額の負債を抱え込んだポルシェSEをVWが11年中に経営統合という形で事実上吸収することで合意。だがポルシェ側が抱える訴訟問題や、経営統合した場合にVWに巨額の税金負担が発生することなどから作業は難航していた。(日本経済新聞)
とあり、VW側の希望である経営統合をその後も目指していたとある。
つまり、買収のためのお金を集め、VW買収を狙ったのは事業会社のポルシェ社(ポルシェAG)ではなく、持ち株会社のポルシェSEということだ。
VWの株を取得しつつも、負債を抱えたのが会社としてのポルシェSE。大株主だから、その負債をVWの力でなんとかしたいと考えるわけで、それが「統合」という解決策になるが、VWという会社としては反対されてしまったということだ。そのため、両家のポルシェSEは負債を抱え続けているということになる。
つまり、ポルシェAGの子会社化は「実質的な統合」でもあり、SEは44億6000万ユーロ(59億ドル)に加え、VWの普通株1株を受け取るため、負債は大幅に軽減される。
2017年の記事では、ピエヒが自身が所有するSE株を売却することに合意したという。
2015年4月にトップの座を降りたあとも、ポルシェSEの監査役としてVWの経営に影響力を及ぼしていたようだが、これによって影響力が低下し、実質的に関わりを断つものとみられる(まだ一部株式は保有)。
また、元VWCEOのヴィンターコーンは不正問題後に辞任したが、当時ポルシェSEのCEOでもあり、10月ごろに遅れて辞任した。
参考文献
フォルクスワーゲン社とポルシェ社 吉森賢